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KUMON 隼人駅前公文式教室 鹿児島県霧島市 【幼児からの英才教育】 の日記

志が、マンネリを封印する

2016.08.26

英語教育は開始年齢が早ければ早いほど有利ですが、年齢が高くなっても、特殊な環境化では、潜在能力が発揮され高い英語能力が身につくことが分かっています。
大量の英語を聴き、大量の英文に触れ続けないと実用英語を修得することはできません。
この英語のシャワーを浴びる上で、最大の障害がマンネリ化です。
これを打破する方法が、脳をアウェー状態に置くというものです。
脳をアウェーにおくのは、「生存の危機」だけではないのです。
「志」という強い思いが、潜在能力のスイッチをオンにするのです。

広島を訪れる外国人は年間35万人に及びます。
こうした外国人に核爆弾の恐ろしさ、悲惨さ、核兵器のない平和な世界の構築の大切さを、外国人に英語で直接訴える高齢の被爆体験者がおられます。
皆さん、高齢になってから英語学習を始められましたが、崇高な志と強い使命感に支えられ、英語をものにされたのです。

1 ヒロシマ通訳者グループ」代表の小倉桂子さん
広島原爆による被爆体験者であり、原子爆弾の怖さを通訳として海外に伝え続けているボランティア団体「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」代表に小倉桂子さんがおられます。
1945年8月6日、当時8歳だった小倉桂子さんは、爆心地から2.4キロの自宅近くで被爆しました。「何か嫌な予感がする。今日は学校に行くな」。厳しかった父の命令で学校を休み自宅にいた小倉さんは助かりました。小倉さんのお兄さんは島根県境の学童疎開先にいましたが何も伝えられず、幾日か経ってから教師たちに広島が壊滅状態になったとの事実を知らされました。
50人のクラスメートのうち家族が全員無事だったのは小倉さんのお兄さんを含めたった2人。父親の予感とそのほかの偶然の重なりで家族全員が救われたのは、まさに奇跡に近い事でした。その惨状は、小倉さんにとって恐怖以外の何物でもありませんでした。。
自身の被爆体験を家族の間でも長らく口にしなかったそうです。
小倉さんは主婦として平穏な暮らしを送っていましたが、37年前に広島平和記念資料館の元館長、小倉馨さんを突然亡くします。
夫の死にうちひしがれていた小倉さんに連絡をくれたのは旧知の作家でジャーナリストのロベルト・ユンクでした。ユダヤ系オーストリア人でホロコーストの大量虐殺を生き延びたユンクは、アメリカによるマンハッタン計画の取材をきっかけに広島原爆の悲惨さを世界に伝えた人物です。
ユンクが世界に知らしめたひとりが、折り鶴のエピソードで知られる佐々木禎子さん。禎子さんの物語はユンクから世界に広まり、逆に世界から日本に伝わりました。
そのユンクにより、原発取材の通訳を依頼された小倉さんでしたが、固辞します。
英語が初歩的なレベルな上に、42歳(当時)では通訳など遅すぎると考えたからです。
しかしユンクは「肉親の死という悲しみを知り、原爆の恐ろしさをも知るあなたがもっともふさわしい」と半ば強引に通訳の世界に担ぎ出しました。
ユンクの意思を継ぎ、夫馨さんの意思を継ぎ、「広島」を世界に伝えるだけではなく、チェルノブイリ事故やスリーマイル島事故、南太平洋の核実験....広島を訪れる世界の核被害に苦しむ人々の体験をも聴き続けています

2 平井昭三さん(78)
70歳を過ぎて英会話を学び始めた府中町の平井昭三さん(78)が、被爆体験を英語で伝えるボランティアを始めて4年目の夏を迎える。原爆や平和をテーマにした通訳に取り組む市民団体の仲間に支えられ、国境を超えた「継承」に打ち込んでいる。 

県立広島商業学校(現在の広島商業高)の4年生のとき、祇園町長束(広島市安佐南区)の級友宅で被爆。市中心部の会社に出勤していた父と、建物疎開に動員されていた弟を失った。 
戦後は市内の百貨店に勤めた。定年退職からしばらくたった2002年ごろ、「退屈しのぎに」で通い始めた近所の英会話教室のカナダ人講師に、英語を使った被爆体験の証言を勧められた。 
初の証言は05年8月6日。平和記念公園(中区)で外国人に声を掛けた。「下手な英語だったが、話すうちに人の輪が膨らんだ」と思い起こす。 
06年、米国サウスカロライナ州の語学学校に短期留学。
帰国後、平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)に入り、平和記念公園や原爆資料館を訪れた外国人に体験を語っている。 

被爆直後、母と焦土を歩き、父の遺骨を拾った記憶を身ぶりを交えて話す。HIPの小倉桂子代表(70)=中区=は「体験を若い世代に伝えようとする熱意がすごい」と評する。 

平井さんの証言は、HIPの会員が通訳技術を学ぶための教本にも活用された。HIPの勉強会に毎回出席する平井さんは「残された人生、記憶を語り継ぐお手伝いを力の限り務めたい」。今夏も忙しくなりそう。8月6日には、原爆資料館でも証言する。
 (2008年7月10日中国新聞より転載)

3 住山一貞さん(79) 
米同時多発テロから11日で15年になるのを前に、長男を亡くした目黒区の住山一貞さん(79)が、写真や資料などを集めた展示会を中野区の区産業振興センターで開催している。
ここ
では、事件直後に現場で消防士が遺体を搬出する写真や、住山さんが翻訳した米政府のテロ調査報告書の冊子など約30点を紹介している。

米同時多発テロは2001年9月11日に発生し、ニューヨークの世界貿易センタービルが倒壊するなどして日本人24人を含む約3000人が犠牲になった。
住山
一貞さん(79)の長男、杉山陽一さん(当時34歳)は、ビル南棟にあった富士銀行(当時)に勤務中だった。
事件の一報を日本のニュース番組で知った住山さんは、すぐに家族に国際電話をかけたが「燃えているのは北棟で、勤務先は南棟だから大丈夫」と言われた。しかし、その直後に旅客機が南棟に突っ込む映像がテレビに流れた。
現実のことと思えなかった。
数日後、関係者らとニューヨークに行き現地の病院を転々としたが、息子の消息は分からない。遺体の一部が発見されたのは翌年4月だった。
(毎日新聞2016年9月3日より抜粋)

住山さんは毎年9月にビル跡地「グラウンド・ゼロ」を訪れ、追悼式に出席している。住山さんは「15年たっても、息子のことを一日も忘れることはない。」と話す。
なぜ息子は死ななければならなかったのか?それを知りたかった時に、調査報告書の存在を知りました。
理由を知りたい、そして、こうした悲劇を繰り返さないために、皆様に伝えなければ、、、という思いで翻訳を始められました。難解な英文で埋め尽くされた838ページに及ぶ報告書を、71歳から8年かけて翻訳されました。
英語は、昔、中学・高校で習っただけで、英語素養は限りなくゼロに近い状態でした。
71歳の時に、翻訳を決意し、英語の文法や読解力の勉強を一から始めました。
そして、79歳で翻訳を完遂されたのです。
これは、愛する息子を奪われた悲痛な悲しみや苦しみ、そして、こうした悲劇を繰り返してほしくないという強い思いが、潜在能力のスイッチをオンにしたのです。  
(NHK報道番組2016年9月12日から情報入手) 

志が、マンネリを封印する

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